2012年06月29日

久しぶりに

ブログ少し間が空いてしました。教会音楽な毎日を送っている私なのですが、教会音楽するためのその周りの営みが少々忙しかったという感じでしょうか。でも、それも教会音楽の内ですね。

少々書き込みできなかった間の“教会音楽”な二つの出来事をご報告をします。

桜美林大学のオラトリオプロジェクト2012、私にとって“久しぶりのバッハ”には、55名ほどの合唱参加者が集いました。6/15(金)の初練習は「主の人の望みの喜びよ」コラールではなく、カンタータ147番の冒頭合唱で練習開始!「古典派を歌うのとは違いますよ。心して取り組みましょう!」モードで開始です。これから5か月間、合唱参加者の皆さんと楽しみ、苦しみ(?) ながら、いややはり喜んで!取り組んでいきます。

6/18(月)は、福音讃美歌協会の年次総会でした。私は所属教派、日本福音キリスト教会連合の代議員として出席しました。総会が行われるのは毎年、7月の平日。ここ数年出席できませんでしたが、久しぶりの出席です。福音讃美歌協会が発足した頃のことを想い感慨深かったです。発足前、日本福音キリスト教会連合内で、かなり議論・意見交換をしたのを思いおこします。当時、私は朝顔教会の音楽主事で、各地区の教職者会に赴いては牧師先生方と喧々諤々話しこみました。「加盟教会の礼拝観・伝統が異なるのだから、讃美歌集をつくるのは難しい・・」「でも、それは礼拝の責任放棄にならないか・・」。際どいやりとりがあったことも思いおこしますが、今思うとそれも必要なプロセスだったな、と思います。「教会福音讃美歌」は一か月後、7月下旬に発行です。次はこの歌集を教会の現場が使っていく時です。協会立ち上げに関わった者の一人として感慨深いものがありますが、これからこの讃美歌集を使っていくということは、既にそれを見直していくプロセスが始まるということですね。「教会福音讃美歌」を手に取られたら、どうぞご感想、ご意見、ご質問、ご批判等、お声をお寄せ下さい。まもなくキリスト教書店に並びます。

かんとーる@うえき
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2012年06月14日

いよいよバッハ

バッハ(J.S.Bach)を話題にするのは初めてです。ドイツで教会音楽を学んだ者ですので、当然バッハには数えきれない程の想いと言葉が私にもあります。指揮者として指揮台に立つ時、やはり自分は「バッハが一番しっくり来るな」とも感じます。2000年にドイツから帰国して以降、演奏会等で指揮をした楽曲としても、バッハはよく取り上げました。前回「自分が指揮をしたバッハは?」と思い調べてみたのですが、これが結構前の2008年の5月で、演奏した曲はモテット「来たれ、イエスよ、来たれ」(BWV229)と、カンタータ70番 「目を覚まして祈れ」、カンタータ93番 「ただ愛する神にすべてを委ね」でした。自分でもこんなに何年もバッハを演奏会で振っていなかったとは少々驚きでした(歌ったり、弾いたりはしていますけど)。

という訳で、以外にも久しぶりに今年、バッハのプログラムに取り組むのです。カンタータ147番「心と口と行いと生活を持て」と、マニフィカート ニ長調(BWV243)、合唱練習は明日6/15(金)開始。桜美林大学で毎年5か月間の時限プロジェクトとして行っているオラトリオプロジェク2012で取り上げます。この2曲を取り上げたのは、今回“マリア”をテーマとしたためです。前者はエリサベツ訪問の祝日のための曲、コラール「主よ人の望みの喜びよ」が挿入されている曲として知られていますね。後者は、ルカの福音書1:46-55のマリアの賛歌がテキストです。

書いた後で注釈する、のが最近の癖のようになっているようで恐縮なのですが。。。さりげなく“久しぶりに”取り組む、と書いたのはその通りなのですが、どこかで自分の中に“いよいよバッハ”という想いがあるのも事実なのです。これまで3年間、このプロジェクトでは意識的に古典派を取り上げてきました。ハイドン:大オルガンミサ曲、モーツァルト:レクイエム、ハイドン:オラトリオ「天地創造」と積み上げてきました。合唱がゼロからのスタート、響きを醸成していくことも念頭に珠玉の名曲に取り組み、その奥深さに出会っていく、楽曲の難易度アップは合唱の響きの醸成と両輪でもあります。3年目のオラトリオ作品「天地創造」で古典派作品への取り組みを一つの節目とし、その次の年はバロック時代の作品から取り上げようと考えていました。“いよいよバッハ”というのは、バッハを演奏するのに、合唱に3年間という時間が必要だった(時限プロジェクトですが一定の積み上げができてきました)こととあわせ、プロテスタント礼拝という文脈での音楽について造詣を深め、実際の演奏を通じその意義に出会っていきたいという想いからでした。

今後このブログで時折、作品について、練習の様子、バッハの様子(!)等、レポートしていくつもりです。

今日、大学の研究所の研究会で、同僚の先生が「母なるもの」というアプローチの発題をして下さいました。マニフィカートに関連する内容です。そこでリラ・プレカリアというミニストリーから次のような言葉を引用し紹介して下さいました。

  バッハは神の言葉を与えてくれた、
  モーツァルトは神の笑いを与えてくれた、
  ベートーベンは神の熱情を与えてくれた、
  神は音楽を与えてくれた、わたしたちが言葉なしで祈れるように(作者不詳)。

私が日常関わり接する音楽、自分にとって使命であり仕事でもある中で、時には理詰めになっていなかったかな、とふと思いました。これは一つの主観的な表現だとも思いますが、神の賜物としての音楽を感謝を持って率直に言い表していると思います。表現が妥当かどうかは別にしても、神の賜物としての音楽を感謝し喜ぶあり方を、今一度自分に語られたように読みました。

バッハが与えてくれた神の言葉としての音楽を、今に生き、歌う者と聴く者に語られるものとして、これから5か月間感謝し喜びながら向き合っていきたいと思います。

最後にご案内。。。まだ参加申込受付中です。高校生以上ならどなたでも。こちら→桜美林大学オラトリオプロジェク2012へどうぞ。

かんとーる@うえき
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2012年06月12日

神学校で

学会、教会福音讃美歌入稿、大学でオルガンコンサートなど、、たて続けに「教会音楽な日々」でした。

個人的に感慨深かったことがありますが、一昨日、お茶の水聖書学院での「教会福音讃美歌発行セミナー」に講師としてお招きを頂いたことでした。何が感慨深かったかと言うと、自分が大学教員になる以前の仕事のフィールドだった、ということです。現場の音楽奉仕者の悩みとか、問題意識をまさに自分の課題と感じました。そしてもう一つは、神学校という場だったこと。植木との接点が最近の方や、学生達は知らないかも知れませんが、植木は以前神学校の教師だったのですね。今でも毎年一度、札幌に仕事に行く際、北海道聖書学院で奉仕させて頂くことがありますが、自分の住む東京の神学校で奉仕だったということで、少々感慨深かったのです。

「『今日に生きる会衆歌と会衆歌唱』が私のライフワーク」とHPのプロフィールに書きました。音楽主事時代に讃美歌について共に議論し分かち合ってきた教派の教職の先生方とは、讃美歌へのビジョンを意識の深いところで一緒に負っている、という感覚があります。賛美歌学、教会音楽を研究し、大学でそれを展開することを通し、今後もその教会の営みを後押しさせて頂きたいと思っています。でも、具体的なことを担うのは教会ですね。「礼拝と讃美」の諸課題、聖書神学し歴史神学し実践神学しなくてはいけません。聖書を軸足に、聖徒達の営みと背中に学びつつ、そして現実の課題に具体的な提案をしていく責任が教会にはあります。この「具体的な提案」に、これまで私達の教会は及び腰だったと思うのです。「讃美歌集」はまさに、この具体的な提案の最たるものですからね。

「今日に生きる会衆歌と会衆歌唱」を想うと、神学教育への期待は大きいと思います。教会自身が礼拝神学に取り組むための序論、健全な礼拝学・讃美歌学へのアプロ−チ方法を、神学生・教職者そして礼拝に関わる奉仕者が学んでいく必要があるでしょう。讃美歌集を礼拝を構成するための讃美歌集して使用していくための、前提であり展開であり、同時にそのあり方へのフィードバックのためにです。

筆が滑って(?)「健全な礼拝学・讃美歌学」などと書いてしまいました。おそらくそれは、いかに確固たる主張が語られるか否かよりも、いかに“教会を主語”として取り組み問い続けていくことができるかという“力”かと思います。その“力”とは、自己批判力に裏付けされた、ある意味、柔軟さなのかな、と。

自分が考え、語る時にこそ、その自己批判の目と柔軟さで語れるようにと思います。

かんとーる@うえき
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2012年06月07日

楽器を育てる

「教会と楽器」と言われて、思い浮かべる楽器は何でしょうか? それぞれの立ち位置、各教会のビジョンによって様々だと思います。

「礼拝にとってふさわしい楽器」という問は、礼拝と音楽に向き合うことにおいて至極当然のテーマの一つですが、何が「ふさわしいか」というアプローチが先に来てしまうと、その問いかけそのものが妥当なのかどうかは後回しに「ふさわしい楽器は何だろう・・」という規定路線に乗ってしまい、さてどう考えたら良いのか空回りしてしまったりもするかも知れません。

ことは「礼拝にとってふさわしい楽器」を聞いている訳です。とすると、その前提の「礼拝」をどう理解するかによって「ふさわしい楽器は」変わる、という当たり前のことに気づきます。ということは、やはりこの問を問うということは、まず、その前提であり展開である「礼拝」を問うことから始まるということになるのでしょう。当たり前の国語の勉強のようですね(^^;; 

でも結構この当たり前のことが脇におかれ、楽器というある意味「現実的な課題」は教会の状況によって様々である筈なのに、礼拝を問うことはせず、もっともな議論を展開しているようで、実は主張したい楽器のため、人それぞれが脳裏に「ふさわしい」と思っている「楽器」を主張したり、ということにもあったりするのではないかと思います。

私は「教会と楽器」を考える出発点は「今、教会に与えられている楽器」。そしてそれを「教会の目的に沿って用い、育てていく」視線だと思っています。

パイプオルガンも元々教会の楽器ではありませんでした。教会での設置もキリスト教的動機ではなかったようです。7世紀、ビザンチン宮廷で皇帝の入退場に移動式のオルガンが奏されたという記録。8世紀にドイツ宮廷で皇帝の入場行進に受け継がれます。皇帝が市中の教会を訪れるような機会にも同様に、オルガンによる入退場の音楽が奏される。この習慣が、同じ教会堂で司祭がミサに“入退場”する際にも受け継がれていく。10世紀頃には移動式ではなく教会堂に設置された大オルガンが登場します。そのように習慣が受け継がれ、礼拝の前奏と後奏という音楽が定着した訳です。元々「移動式の楽器」だった、ということは屋内でどう響くか考えられてはいなかったでしょう。その証拠に教会堂に持ち込まれた当初「その粗雑な音に人々は耳をふさいだ」という記録がある位ですから。

パイプオルガンの話がここで終わり?だとしっくりしませんね。今一度「今、教会に与えられている楽器」が出発点、というのは私の嘘偽りないスタンス。そこに立ちつつパイプオルガンについては一言言わなければなりません。普遍的に客観的に「ふさわしい楽器」な訳はないですね。でも、注目すべきなのは「教会が、礼拝とその場にふさわしく育て、整えてきた楽器」の代表例、と言うことはできるでしょう。もっと積極的に言うならば、結果的に、そしておそらく摂理的に「教会が育てた楽器」となったと言えるでしょう。

「教会にとってパイプオルガンはふさわしい楽器か?」と問われる時、私はその問に真正面からは答えず、その歴史的経緯と個人的な想いも込めて、「なかなか良い楽器」と答えることにしています。

そのニュアンスを汲み取って頂けると「教会と楽器」について考える助けになるかと思います。「今、与えられている楽器」が出発点、しかしそこで留まらず「最良の捧げもの」としての「讃美」のため、「楽器」を「礼拝」という行為と場とにおいて育てていく、と言う視点。。

かんとーる@うえき
posted by かんとーる@うえき at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記