2012年08月03日

久しぶりの「讃美歌」に想う

昨日と今日久しぶりに『讃美歌』(1954年度版)から何曲か奏楽しました。大学の名誉教授の先生の前夜式・葬儀があったのです。

『讃美歌』(1954年度版)で奏楽するのはいつ以来だろう、、と考えてみました。私の所属教会では、2003年度から礼拝で『讃美歌21』の使用を始めました。聖書研究祈祷会では引き続き『聖歌』を使用しつつ今日に至りました。自分の教会の礼拝で最後に『讃美歌』を奏楽したのは、もう9年前ということになります。桜美林大学では2006年まで『讃美歌』を使用していました。『讃美歌21』に移行したのは2007年。私が奉職したのは2005年でしたので約2年間、大学のチャペルアワーでは『讃美歌』でした。

昨日の前夜式では「主よみもとに近づかん」(讃美歌320)、「いつくしみ深き」(讃美歌312)を歌いました。今日の葬儀では「はるかに仰ぎ見る」(讃美歌488)、「きよき岸辺に」(讃美歌489)。讃美歌はご遺族が選ばれたと聞きました。故人が愛唱されていたということもあったかも知れません。その時代に『讃美歌』で教会生活・信仰生活を養われた方にとっては自然なことです。私は昨日、今日これらを奏楽し会衆の歌声を聴きながら、葬儀という礼拝の場でその讃美の歌は今ひとたび新しくされた、と感じ感謝だったのです。この感想、もしかすると私らしくないかも知れません。讃美歌という課題は、教会が主体として考え取り組む課題、私自身は普段、讃美歌の「感想」や「愛唱歌」で語らないようにしています。でも、やはり一人の信仰者の背中を見る、ある意味その証の場としての礼拝でもある葬儀で、故人の背中を語り、これらの歌を通し歌う者が新しくされた、ということを経験したのです。

「歌詞が文語調で少し古く感じられても、かなり定着していることが認められ、かつ神学的な議論を喚起する等でない場合には、歌詞を変更せずにそのまま収録。」『教会福音讃美歌』の公式コメントではありませんが、古い歌詞でもそのまま収録というものを説明するのには、今回、おおよそこのような判断でことにあたったと考えて良いと思います。何が言いたいかと言うと、昨日・今日歌った3曲『讃美歌』320番、312番、488番は、それぞれ『教会福音讃美歌』407番、432番、335番として歌詞を変更せずそのまま転載した讃美歌でした。

讃美歌を「信仰の継承」という視点で考えると、継承するからこそ今日の視点で改訳が必要になることが当然あります。しかし大部分が「新しい歌詞」になり、讃美歌集全体としての変化の速度が速すぎると大変です。「変化についていけない」というようなことがあるとするば、そのことそのものが、そもそも信仰生活の経験更新としておかしなことだからです。経験とは少しづつ獲得するものです。この辺り讃美歌集の理念に関わることなので一言で言うのは難しいですが、讃美歌集の内容の変化には、振り子のようなバランス感覚が必要かな、と個人的に思っています。

『教会福音讃美歌』を例にあげれば、全506曲中『聖歌』『讃美歌』『讃美歌21』から約300曲を歌詞を変えずに収録。長く時間が経ち日本語のことばの変化によって理解できなくなった歌詞などは、今日の言語感覚に沿い約150曲を改訳。この半世紀の間に世界中で産み出されてきた新しい歌が約30曲、新しい創作歌が約20曲ということになります。どの程度「新しく」感じられるかは、それぞれの教会のこれまでの経験、具体的にはどの讃美歌集をどのように使用してきたかによって異なると思います。

「新しい歌を主に歌う」ということで重要なのは、私たちの主への歌、歌う営みが新しくされ続けるということでしょう(私は一教会音楽家です。聖書釈義をしているのではなく、あり方を問うています)。新しくされ続けるとは具体的どういうことなのかを、礼拝という営みにおいて、各教会と教会の交わりで共に求め続けていきたいのです。

今回の前夜式・葬儀の讃美歌のうち、最後の『讃美歌』489番「きよき岸辺に」だけは『教会福音讃美歌』337番として改訳の後、収録しました。どうぞ開いて歌ってみてください。そして今日を生きる歌、について共に考えていきたいと思います。

召天された信仰の先輩の背中を見つめつ。

かんとーる@うえき
posted by かんとーる@うえき at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | さんびか・・
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