2014年09月24日

讃美歌集と大学クワイアと・・

今年「福音協会讃美歌」のCD Vol.2に制作に入っているのですが、同讃美歌集収録曲の内の「聖公会聖歌集」から使用許諾を頂いた讃美歌曲4曲のレコーディングを立教大学クワイア(立教大学諸聖徒聖歌隊)にして頂きました。レコーディングは2014年8月8日(金)立教大学池袋キャンパスのチャペルにて行われました。その時の様子はスコット・ショウ先生のブログ Scott Shaw's Blog のページ下部 "3.Recording Project" にあります。

立教大学は英国聖公会をバックグラウンドとするキリスト教主義大学です。私自身がドイツで教育・訓練を受け、ドイツの讃美歌を中心とするものを専門としているのはこのブログをお読みの皆さんはご存知のことと思います。例えば福音讃美歌協会での讃美歌委員としての私の役割は、主に「ドイツ係」「教会音楽係」と言えるかと思います。讃美歌に関わる働きは、神学、言語学、文学、音楽そしてさらにそれらのより細部に専門性が交差、協力しあって成し得ることですので、一人一人がオールマイティーである必要はないし、どちらかと言えば自分の守備範囲を広げることよりは、それぞれが深める専門性が交差し協力することが求められるのだと言えます。

何か前置きが長くなりました。私は私の専門のドイツとはまた異なる、聖公会(アングリカンチャーチ)の教会音楽、そしてイングランドの讃美歌の歴史と取り組みに心からの敬意と感謝を抱いている者です。私自身は負いきれないこれらの分野との接点という意味でも、私は立教大学との関わりに感謝しています。週に1度立教大学で教鞭を取りながら、私自身色々な刺激を頂きます。学会やキリスト教学校教育同盟の関わりでも立教大学と繋がりがあります。そのような意味で、自分が兼任講師として関わっている大学のクワイアに讃美歌集のレコーディングに協力頂いた、ということは率直に感謝なことだったのです。

しかし実はこのことは「率直な感謝」という言葉だけでは表現しきれない感動でもありました。少しパーソナルな言い方になってしまうのをお許し頂けるならば、今回、立教大学クワイアに「教会福音讃美歌」の讃美歌曲のレコーディング頂いたことは、私自身の中では、大きく、深く、そして静かな感動でした。日々の日常でそれを意識して動いたとか、目指していたとかということではないのですが、ふと気が付いたら、教会の働きとして自分が10年来深く関る讃美歌の働きと、実際的具体的な活動の接点が普段から多くあったとは必ずしも言えないキリスト教主義学校の活動が、具体的な共助の形で重なった瞬間だったからです。

クワイアの皆さん、Shaw先生、レコーデングスタッフの皆さんがレコーディングに取り組まれている時間、私はそのようなことを思い巡らしていました。

レコーディングは8月8日の金曜日でしたので、私は早めに立教大学を後にし、桜美林大学に戻りました。その日は夏休み前のオベリンナー・カントライ最終練習日。桜美林大学の合唱練習に向かう車中、大きな力と励ましを背中に感じていました。それぞれ大学の取り組みが、学生のため、地域のため、そして教会音楽の振興のため響いていきますように。そのために私も、私達も、与えられている歌声を響かせ、通わせていきたいと思わされます。

かんとーる@うえき
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2014年04月22日

カントール、カンタータ、カントライ

カントールハウスのトップページに書いていますが、「カントール」は「歌わせる者」の意。無理矢理翻訳のようなぎこちなさが残りますが、的確な訳と自分でも思っています。今日「カントール」は「教会音楽家」とほぼ同義に理解されますが、元々は本来の意味通り「歌わせる者」すなわち「先唱者」「合唱長」のことであり「オルガニスト」とは別の役割・職務でした。

バッハの時代の礼拝の記録に「ムジーク(音楽)」とか「シュトゥック(曲)」などと表記されていたのは、後に「カンタータ」と呼ばれるようになった楽曲。今度は「歌われる曲」ということになります。

「カントール」も「カンタータ」も語源はイタリア語の「カント(歌う)」「カンターレ(歌うこと)」。「カンタービレ(歌うように)」が一番馴染み深い音楽用語でしょうか。

もう一つの擬似語「カントライ」について。これは「合唱」のことになり、辞典をひくと「教会合唱団」とか「聖歌隊」と出てくるのですが、「教会合唱団」はドイツ語では文字通り「キルヒェンコーア(Kirchen=教会の、Chor=合唱団)」という語です。私がドイツ時代に非常勤カントールとして指導した教会合唱団(聖歌隊)も「キルヒェンコーア」でした。実際ドイツにいた当時、教会合唱団で「キルヒェンコーア」ではなく「カントライ」をと名乗っている合唱団は多くはなかったと記憶します。合唱団の規模で使い分けているという訳でもないようで、私の大学の同僚で教会音楽大学在学中に、私と同じように非常勤カントールを別の町で勤めていたドイツ人の友人は、自分の教会合唱団を「カントライ」と命名していました。大学の同僚の間では、ちょっと「え、そうなの?」と言う空気で話題になったこともありましたっけ。

どこがどう「え、そうなの?」なのかと言うと、それはその街全体の中での複数の合唱団間の関係性に関わることだからなのです。どういうことかと言うと、私は南西ドイツの経済都市であるシュツッツガルト市東隣の エスリンゲン市と言うところに住んでいたのですが、市中のプロテスタント25教会の全てに付属合唱団がありましたが、「カントライ」という名を冠していたのは、市中心のセントラルチャーチである聖ディオニス市教会の合唱団だけだったのです。

私は市の南側丘の上のツォルベルク教会でカントールを勤め、その教会の「教会合唱団」を指導していましたが、私の合唱団のメンバーの何人かは聖ディオニス市教会の「カントライ」のメンバーでもありました。「カントライ」にはそのように市中の小さな合唱団のメンバーが、並行してメンバーとして加わり、より大きなプロジェクトや音楽礼拝またオラトリオコンサートなどをしていました。普段はそれぞれの合唱団で小曲を中心に取り組み、大きなオラトリオなどは「カントライ」で取り組み演奏する。市内各地からの合唱団員が縦横に関わり合い、演奏活動・取り組みは町全体で共有し、カントライ団員を通して市中個々の合唱団活動にも還元していくと、いうようなネットワーク的な関係性があったのです。

そのような意味合いから、「カントライ」の命名は個々の合唱団ではなくセントラルチャーチの合唱団に使われることが多かったのだと思います。私はこういう結集・還元の関係性は、音楽活動を共有しそれを育て関わっていくのに良い関係だなぁ、とずっと思っていました。

2009年に始まった桜美林大学のオラトリオプロジェクトが、6年目の今年、学外の大ホールでのコンサートに向けて始動することとなり、合唱団としてのアイデンティティーと更なる一体性を確認できるよう合唱団名称について慎重に検討してきました。いくつか紆余曲折(桜美林の“桜”を漢字で入れてみたり・・・)の末オベリンナー・カントライと命名されることとなりました。「桜美林人による宗教曲合唱団」の意味になりますが、単に桜美林大学に結集する合唱団と言うだけではなく、その取り組むを教育に還元し地域の文化振興に貢献していくというビジョンが込められています。

最後に「カントライ」の語源的意味について。歴史的には「カントライ」という概念は、合唱、聖歌隊だけでなく器楽アンサンブルも含んでいたようです。バッハの時代からその後の時代まで「合唱」と言うのはせいぜいパート2,3名の「重唱団」でしたから、規模云々を言い表している訳ではやはりありませんでした。語源的には「カントライ」を他の合唱を表す概念と区別しているのは、「カント−ルが主宰する音楽共同体」という意味合いです。その意味で宗教曲を扱うということも結果的表されています。

とにもかくにもカントール、カンタータ、カントライ、どれも「歌」から発することなのです。

良き「歌」を歌い、捧げていきたいと願わされます。

かんとーる@うえき
posted by かんとーる@うえき at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2012年06月12日

神学校で

学会、教会福音讃美歌入稿、大学でオルガンコンサートなど、、たて続けに「教会音楽な日々」でした。

個人的に感慨深かったことがありますが、一昨日、お茶の水聖書学院での「教会福音讃美歌発行セミナー」に講師としてお招きを頂いたことでした。何が感慨深かったかと言うと、自分が大学教員になる以前の仕事のフィールドだった、ということです。現場の音楽奉仕者の悩みとか、問題意識をまさに自分の課題と感じました。そしてもう一つは、神学校という場だったこと。植木との接点が最近の方や、学生達は知らないかも知れませんが、植木は以前神学校の教師だったのですね。今でも毎年一度、札幌に仕事に行く際、北海道聖書学院で奉仕させて頂くことがありますが、自分の住む東京の神学校で奉仕だったということで、少々感慨深かったのです。

「『今日に生きる会衆歌と会衆歌唱』が私のライフワーク」とHPのプロフィールに書きました。音楽主事時代に讃美歌について共に議論し分かち合ってきた教派の教職の先生方とは、讃美歌へのビジョンを意識の深いところで一緒に負っている、という感覚があります。賛美歌学、教会音楽を研究し、大学でそれを展開することを通し、今後もその教会の営みを後押しさせて頂きたいと思っています。でも、具体的なことを担うのは教会ですね。「礼拝と讃美」の諸課題、聖書神学し歴史神学し実践神学しなくてはいけません。聖書を軸足に、聖徒達の営みと背中に学びつつ、そして現実の課題に具体的な提案をしていく責任が教会にはあります。この「具体的な提案」に、これまで私達の教会は及び腰だったと思うのです。「讃美歌集」はまさに、この具体的な提案の最たるものですからね。

「今日に生きる会衆歌と会衆歌唱」を想うと、神学教育への期待は大きいと思います。教会自身が礼拝神学に取り組むための序論、健全な礼拝学・讃美歌学へのアプロ−チ方法を、神学生・教職者そして礼拝に関わる奉仕者が学んでいく必要があるでしょう。讃美歌集を礼拝を構成するための讃美歌集して使用していくための、前提であり展開であり、同時にそのあり方へのフィードバックのためにです。

筆が滑って(?)「健全な礼拝学・讃美歌学」などと書いてしまいました。おそらくそれは、いかに確固たる主張が語られるか否かよりも、いかに“教会を主語”として取り組み問い続けていくことができるかという“力”かと思います。その“力”とは、自己批判力に裏付けされた、ある意味、柔軟さなのかな、と。

自分が考え、語る時にこそ、その自己批判の目と柔軟さで語れるようにと思います。

かんとーる@うえき
posted by かんとーる@うえき at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感